瀬戸内海

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雨笠松

樹齢300余年の倉敷市指定天然記念物「雨笠松(あまがさまつ)」、塩飽諸島と讃岐連山を一望できる岬の寺

本性院は、日本初の海水浴場「沙美海岸」すぐ東の小さな岬にあり、瀬戸内三十三観音霊場 第十八番札所、宗祖根本傳教大師霊場 第十九番札所、備中浅口西國観音霊場 第七番札所です。
水島灘に面した寺前の海岸からは、東から西に目を移していくと水島エリアの工場群〜上水島・下水島〜手島・広島・本島などの塩飽諸島が望め、好天時には讃岐富士をはじめとした四国の連峯を見渡すこともできます。
また戦前には岡山医大の海浜施設もあり、警護を伴った県知事も寺を宿舎に海水浴に訪れたこともあります。
岬の突端、番所山には江戸時代後期、水島灘を行き来する船を監視するための倉敷代官所支配の船番所があり、当時は大きな侍屋敷もあったそうです。
境内に入ると、右手に本性院のシンボル、優しくも圧倒的な存在感の「雨笠松」が目に入る。その奥に本堂、正面に客殿、左手に鐘つき堂や研修道場の洗心寮などがあります。

文芸歴史

幾山をくだりつくせば

寺伝によると、円仁(慈覚大師)によって平安時代初期の承和年間(834〜848年)に開かれ、寺は沙美の北の山中、上谷にありました。永正年間(1504〜1521年)同地区の奥に移転、観音堂を建立。その後さらに化谷(ばけだに)へと移りました。その頃の寺号は「圃福寺」で、鴨方の明王院末となります。現在地に移ったのは江戸時代中期の宝暦二年(1752年)、「矢崎山 圓福寺 本性院」となりました。
歴代住職の中で、第十五世慧亮は「雪濡」と号した著名な文人であり、鴨方の西山拙齊に「詩文」を学び、備中画壇の開拓者・黒田綾山に「画」を師事しており、綾山の弟子・岡本綾江の画に讃をしたものなど多くの作品を残しています。
当時、沙美地区の向山は梅の名所であり、梅見帰りの文人達が本性院に集い、思い思いに詩を賦し、画に筆を走らせたのではないでしょうか。境内には葉上照澄師の筆になる歌碑に、恵まれた景観を詠んだ湯本喜作氏の歌が記されています。

御本尊

千手観世音菩薩は、変化観音の最も変化した姿で、人を救済する力を強く持つ観音様で、千手千眼観音ともいわれそれぞれの掌は目があり、多くの人々の助けを求める声(音)を観る(=観音)こと、漏らすことなく救済するための慈悲と広大な力を示しています。
また個々の手にある多様な持物は、人々のあらゆる困難に応じた救済方法を持っている事を表しています。

雨笠松

境内で枝を広げている「雨笠松」は、本性院の代名詞ともいえる倉敷市指定天然記念物。樹齢は約三百余年で、目通りの周囲2.7メートル、高さ5.5メートル、枝張り直径16メートルもあります。
安永年間(1772〜1781年)に第十四世真寛が近くの山から移植した松が次第に枝を垂れ四方に伸び、第十七世実亮が幹の先端を切り笠の形にし、幕末に儒者・雲岳が雨笠松と名付けました。

本堂

本性院は地域、檀信徒の皆様との交流も年間を通じて積極的で「本性院沙美盆踊り保存会」の皆様方との地唄、盆踊りの継承に取り組んでおり、8月15日の施餓鬼法会の際に境内での盆踊りを行っています。
また、4月の花まつり・2月の涅槃会では、音楽家を招いてのミニコンサートを開催しています。多くの方が、本堂での楽器の音色を楽しむひと時を共有しています。